教わること。学ぶこと。

ファシリテーションとは 「グループの可能性を最大限に活かす力」

と、国際ファシリテーション協会ではいっています。 私に言わせると、参加者全員がファシリテーター。 議論や行動の促進は、大事。それは、参加者、それぞれが体験できる。 ”うまくすすめる”、、誰にとってでしょうか?!。 思い通り?!各人の想いは違う。答えは一つではない。 そこがポイントかも知れません。

部下指導でも、部下の自発的な提案を聴く、自発性を尊重するといいながら、 どんな提案?どんな行動?と掘り下げて聴くと、上司である自分が望むような提案や行動を自発的にやってくれることを、、という難しいことを言う方がいます。 会議やワークショップのデザインで、前に立つ人間の想定している答えに、 やり方に導こう、いや、それに従おうとする傾向はないでしょうか? ワークショップデザインでも、計画したとおり、粛々と、、を期待する方もいます。 でも、それは、、相手や参加者を管理、コントロールしすぎ、されすぎ、人の能力を見くびっている可能性はありませんか?!

自ら主体的に学ぶ。問いを立てる、遣り取りをする、仮説検証、試行錯誤、 新たな答えを衆知を集めて作り上げる。沿い右脳料をあげる、メタスキルを磨く。 そういう会議やワークショップで力を発揮するのが、私はファシリテーションかとおもいます。

でも、進行役が落とし所を想定している、時間タイミングも狙ってるとか、、 参加型研修であっても、グループワークでも、研修講師の想定した答えを言わされてる感アリアリとか、、

進行役は全知全能ではないので、それを上回るものがえられることを期待できるし、なによりも、自分たちで、生み出せる、外部コンサルや誰かに路い美いてもらわなくてもできる体験がさらなる未来を生み出す種になると私は思っているのですが、

もちろん、旧態然とした上からの無言の圧力はある。 研修は正解を教わるもの。会議は進行役は正解を導くもの。

時間内で成果をあげなければいけない。その圧力はありますが、 成果主義より開花主義、うちの兄に言わせると、一人ひとりの百花繚乱個性の花が咲いてこそ実はなる。でもその前に、育根。土を耕し、木の正常な根本を作るから、継続的に収穫ができる。それが組織改革かもしれませんが、、、

背景にあるのは日本の教育、どうも日本での教育のなかで、、

 正解は一つ。もう既にある。
 考えるな。教われ。
 疑問に思うな。指示に従え。
 上司、親、妻から質問されたら反省しろ。
 下から質問してはいけない。それは反抗とみなす。
 失敗するな。ちゃんとできて当然。
 すばやくやれ。できないのはあなたの責任。
 リクエストには答えろ、努力は当然


みたいなバイアスはかかっているような気が最近しています。 少なくとも理系の大学の研究室や学会はそうではなくて、議論して新しいものことをかんがえてなんぼだとおもうのです。が、学会でも示されたゴールに向かって論文捏造しちゃうやつもおり、、。 私のように、中学高校で、教科書に書かれてることは自分で検証しろ。丸呑みするな、みたいな教育をうけることはめずらしく、効率よく、正解を教わってやり方を教わって、失敗なく、早く踏襲することが評価される最近、問が作れない、 やり方を教わろうとする。

うちの兄、本間正人(NPO学習学協会理事、京都造形芸術大学副学長)は、 ”最終学歴ではなく、最新学習歴更新が大事。”といってます。 時代は常に変化している、過去の遺産で食えるわけではない。生きてる間学び続ける、 学びの継続、最近何を学んだか、、だと私も思うのです。 ところが、これも、どこで、、学校や講座で何を教わったか、、ってのになってしまう方もいる。いや、何もしないよりは悪くはないのですが、積極的に受け身で教わりにいってないかな?と、、教わりにいったって事実だけで、満足してないか?

故人の永六輔さんは、いつもの町並み、「知らない横丁の角を曲がれば、もう旅です」といわれた。それは自発的に、いつでもどこでも始められる、おおなじように、日々の中で見方を変える、人と話すことで違う見方に気がつくことができる、世界は広がる。そういう学習がだいじなのかなと、、

もちろん、共通言語とか、過去の先人からの知見や知識ややり方を教わる踏襲することもだいじですが、背景にあるメタスキル、思想を学ぶのもまた大事だし、新たなやり方を生み出すこともまた、学びだと。

とりとめなくなりましたが、、、時間制限にひっかかりそうなので、、 愛と尊敬と感謝を込めて、 本間直人