本間正人の英語学習歴

文法から始まった

私と英語との出会いをふりかえってみますと、小学6年生の2月、中学受験が終わってすぐに、ある都立高校の物理の先生から英文法の手引きを受ける機会がありました。いきなり「英語には5つの文型がある」という話から始まり、SV,SVC、SVO、SVOO、SVOCだ、というのです。ボキャブラリーがほとんどない状態でしたから、はっきり言ってまったく意味不明でしたが、おかげで、文法用語に関しては、非常に詳しくなりました。その先生からは、中学受験対策に化学記号を教えていただいたりしたのですが、これと同じように文法をパズル感覚で学ぶのが、当時の僕には合っていたようです。

中学、高校時代は、あまり熱心に学校の英語を勉強したわけではありませんでした。今にして思えば、かなり実力の高い先生方だったと思いますが、訳読中心の授業には、あまり興味を感じませんでした。

一方、Z会の通信添削はとても面白かったです。特に、高校2年の時には、Z-ARE(All round English)というユニークなコースがあって、かなりの長文を読んだり、高杉晋作の俳句を訳したり、結構マニアックな内容でしたが、知的好奇心をそそられたものです。ただ、このコースは、採算がとれなかったらしく、ほどなく廃止されてしまいました。大学入試では、まあ合格点はとれたと思いますが、特別に優秀だったとは思いません。それで大学入学後も、Z会を続けて、大学入試レベルの英語に関しては、マスターすることができたと思います。ですから、私の英語力のベースは受験英語なのです。本間正人の英語学習歴

歌舞伎町で英語を学ぶ

大学1年の夏休みに、最初は第2外国語だった中国語の勉強でもしようと思ったのですが、某校のあまりの見すぼらしさにがっかりして、ふらりと新宿・歌舞伎町のECC外語学院に立ち寄りました。まず、文法のペーパーテストがあったのですが、受験英語直後だったため、これは簡単でした。問題が間違っていた部分を指摘したりして、余裕を感じていたのですが、次の瞬間、青ざめました。

カウンターのスタッフが、How large is your family? とか、What do you do on weekends? とか、指をクリックしながら、矢継ぎ早に質問してくるのです。決して難しい質問ではないのですが、答えが口をついて出てこない。あせればあせるほど、しどろもどろになり、「これはやばい」と痛感したのでした。その場で、下記集中講座の「初級」に申込みました。

安達ひろみ先生と川本よう子(「よう」は「火華」という漢字)先生という二人の明るい先生と、とても楽しい仲間に恵まれて、英語学習にはずみがついたのはとてもラッキーでした。川本先生は、現在、字幕翻訳などでご活躍されています。

それから、大学に通うよりも英語を勉強している時間の方が長いという時代になりました。当時のECCはレベルが細かく分かれていたのですが、中級準備、中級、上級準備を半年ずつでクリアし、3年で上級、4年の時は研究科に進み、同時に文法講座と時事英語講座を担当させていただきました。毎年、映画を100本くらい見たり、free conversation の時間を作ったりしたのですが、一番、大きかったのは、上級準備から松野守峰先生の指導を受けたことです。

松野守峰先生の指導

松野先生は、現在も20年もあまり容姿が変わらない不思議な方(?)ですが、英語学習に対する情熱、熱心さが桁はずれなのです。毎週1回7:20のレッスンの時にも、FENのラジオテープを使ったり、新聞や雑誌を使ったり、毎回が真剣勝負なのです。これは、講師があまり予習できないので、よほど自信がなければできないこと。しかも、毎週、紀伊国屋の紙袋いっぱいに新しい洋書を買い込んで、その情報を私達に惜しみなくシェアして下さるのです。

さらにさらに9:20にクラスが終わると、その後、有志を募って、喫茶店やとんかつ屋で、無料で勉強会を開いて下さいました。最初はエラリー・クイーンの推理小説、その後、Asahi Evening News に載っていたWilliam Safire の On Language というコラムを読んだり、Browser’s Dictionary という辞書を読んだり、きわめてチャレンジングな内容でした。英語学校の講師と生徒というよりは、師匠と弟子という関係にしていただいたことが、最も感謝していることです。

今日現在、Amazon.co.jpでは先生のご著書が16冊出てきますが、どれもこれも力作揃い。「英語の鉄人」とも言うべき、すごい方です。詳しくは、 http://www.eigojukuTHEmirai.com/ をご参照下さい。

国連と大来事務所

さて、大学を出てから、当時、国際機関への奉職を志していた私は松下政経塾に進みました。松下幸之助翁が創設した、この塾の基本方針は、「自修自得」「知徳体三位一体」「現地現場主義」で、これは私が「学習学」を考えるベースになっているのですが、私の場合、国連と大来事務所で実務経験を積むことができたのが最大の成果でした。

1984年5月から、ウィーンの国連国際青年年事務局(International Youth Year Secretariat)で約半年、実務研修したのが、初めての国際体験でした。最初は、英語の発音に自信がなかったのですが、実際に行ってみると、会話は何とかなり、むしろライティング能力の低さに愕然としました。国際機関は、文書で仕事をする官僚機構なので、事務文書を書く力が要求されます。ところが、当時の私が作文しようと思うと、active vocabulary(使える語彙)の量が少ないので、どうしても主語がit やthereになってしまうのです。(国連ではI やyouが主語になる文書は使いません。)

ビジネスライクな文書を書くためには、抽象名詞を主語にもってくることが必要で、そのためには動詞のボキャブラリーが豊富であることが不可欠なのです。数年後に留学しようと決めたのは、この時、英語のライティング能力を高めようと思ったことが背景になっています。また国連のファンド・レイジングの方法についても、学ぶことができました。

1987年9月にウィーンからワシントンに移動し、米国出張中の大来佐武郎(おおきたさぶろう)先生に合流して、そこから秘書活動を開始しました。大来先生は、初めての経済白書の執筆者で官庁エコノミストのさきがけ、大平内閣の外務大臣をつとめ、日本を代表する国際人として活躍されていました。当時は、内幸町の富国生命ビルに、内外政策研究会の看板を掲げ、新潟の国際大学の学長も兼務。年間十数回の海外出張をこなし、経済、環境、教育などありとあらゆる国際会議に出席するという超人的な活動をされていたのです。私はアシスタントとして、会議に同行したり、資料をまとめたり、口述原稿を整理したりというお手伝いをさせていただいた訳です。

ここで、大来先生から学んだことを1つだけ紹介するならば、国際会議の場では発言の中にquotable phrases を埋め込むこと。どんなに理論的な話をするよりも、短くて印象的な言葉をひとこと伝える方が、はるかに効果的なコミュニケーションになるのです。大来先生の英語の発音は、決して流暢でなめらかなものではありませんでしたが、ボキャブラリーレベルが高く、しかも、肝腎な言葉を繊細に使い分ける感覚をお持ちでした。1993年にお亡くなりになりましたが、様々なニュースに接するたびに、今の日本にDr. Okita がいれば、と思わないではいられません。

私はミネソタの公務員

1987年に政経塾を卒塾し、9月からミネソタ大学のハンフリー・インスティテュート(公共政策大学院)に留学しました。ここを選んだのは、大来先生とローマクラブの仲間である、ハーラン・クリーブランド先生が学長(Dean)をつとめていて、彼の弟子になろうと思ったからです。

Harlan Clevelandという名前は日本ではあまり知られていませんが、20世紀のアメリカを代表するglobal thinkerと言えるでしょう。第二次大戦後にイタリアのマーシャル・プラン責任者を振り出しに、中国で黄河治水工事の責任者、雑誌編集長を経て、シラキュース大学マックスウエル・スクール学長、ケネディ政権の国連担当国務次官補(キューバ危機の当事者)、NATO大使、ハワイ大学総長、アスペン研究所国際部長などを歴任した人で、名文家です。

彼のゼミでは What works and why? というテーマで、多国間、二国間の国際協力事業の成功要因分析を行ないました。南極条約やモントリオール議定書、インテルサットやWMOなど、地味ながら着実に成果をあげている国際協力事業がなぜうまくいったのかその秘訣を抽出しようという発想です。私は、情報通新技術の影響についてレポートをまとめましたが、ゼミの成果はBirth of a New World(Jossey-Bass, 1993)という本に紹介されています。

1988年9月から、ミネソタ州政府貿易局の日本担当官をつとめることになりました。前任者が民間のコンサルティング企業に引き抜かれたので、急遽、声がかかったのですが、留学生をいきなり地方公務員にしてしまうのは、さすがに「移民の国」だなあと感じました。当時、日本はバブルの絶頂期で、ミネソタから日本向け輸出支援と、日本からミネソタへの投資促進、そしてそのための州の知名度向上などを、仕事として担当していたわけです。留学生としてはできないような経験を積むことができ、特にライティング能力については、貿易局のOJTで鍛えられたと思います。

ミネソタには、94年から成人教育学博士課程に2回目の留学をした訳ですが、その時に、伊藤守氏の紹介でコーチングを学び、学習学の構想がほぼまとまりました。そんな訳で、ミネソタには7年半くらいいた計算になります。Land of 10000 Lakes と呼ばれる美しい州です。Northwest 航空の本社もありますので、足の便は良いですから、一度、足を運ぶと、NYやLAとは違うアメリカのふところの深さを感じることができると思います。

これからの目標

「国際青年の村」「世界青年の船」など国際交流事業については、言及できませんでしたが、様々な行事に参加することで、国際コミュニケーションの経験、特に大勢の前でスピーチをする力は磨きがかかったと思います。しかし、今でも英語で話すことについては、まだまだ改良の余地があります。英米でテレビのインタビューを受けたり、講演で聴衆をうならせるようなレベルのspeaking能力を身につけたいと思っています。そして、Harlan Cleveland先生のような達意の英文はなかなか書けないでしょうが、「読ませる英語」のwriting能力を磨きたいと言うのが、現在の目標です。

(2002.3.10)

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